< 日本のピラミッド 1 その2つづき>
葦嶽山 その2つづき
容量の関係で その「つづき」です。
鬼叫山に残るドルメン跡
さらにドルメンから右に下って進んだところに鏡石(かがみいし)がありました。
ピラミッドには この鏡石がなくてはならないものなのです。
鏡岩
この鏡石(現地の案内看板は『鏡岩』となっています)の傍に脊柱が立っています。その上面に 5寸ぐらいの半球形の穴があります。
この穴は 自然に現われたものとは思えないもので、伝説によれば この穴に夜行の珠が蔵められていた、ということであったようです。
20数年前(大正時代初期)に 村の人々が、この石柱を「神武天皇の御稜である」との伝説に惑わされて、何の工夫も無く掘り返したとのことで、
当時はこの石柱が3本あったというのですが、必ずやこれは4本あったとものであって、完全な方位石なっていたと思わる―――としています。
なお、この石柱の後方にも 方位石があります。
方位石
この他にも偉大な切り石が幾十枚も散乱していますが、何の考えも無く掘り返したのであるから、残念ながらその原型を想像することとさえも不可能である。
仮に崩壊された石材を復位できたとすると、太古日本の神社の様式が目前に髣髴とされるであろうが、返す返すも残念な乱暴を敢えてしたものである。
しかし、乱暴といえば無知な村民はやむを得ないとしても、いやしくも専門家をもって任じる学者らが、単に貝塚と称して太古の皇陵を発掘するに至っては、許しがたい大罪である。
酒井は続けます。
「鏡石の左側にも方位石がある。当時の方位石はすべて北極星を標準にしたものである。
(一行のいた)この山(鬼叫山)はピラミッドの拝殿であるが、本殿すなわちピラミッドではない。
このように研究中にも辺りは夜陰に閉ざされて、雨はますます激しくなるばかりであり、同行者の危険にさらす可能性があって、下山することにする。」
そして―――歴史に残る名言が生まれます。
その途中で後方を振り返ったときに、完全なるピラミッドが松林をとおして、あたかも淡い墨絵のごとく 鮮やかにそびえているのを見て、
酒井は―――「諸君、あの山が正にピラミッドである」と 叫んだという。
葦嶽山全景
こうして酒井一行は下山して、宿で食事を摂ったのは夜の11時であったといいます。
「天下に公表するには実地調査の必要があるので、この発見は同志の間でのみ漏らしたのであるが、いつの間にか新聞に特筆されて、青森県の奥山ですらこれを話題にするまでに吹聴されたために、
少しでも早く実地調査の必要があり、1ヵ月後に 登山実地調査を決行することに決めて、各関係者に通報した。」
ところが、早くも妨害運動が始まったと密告があり、万が一のためにニセ情報を流して、日程を変更して再び単身調査に出かけています。
偶然に同行することになった3人で、再度葦嶽山に登ることになります。
酒井は 「もしピラミッドの確証を得られなければ、余は再び還らない」と公言してきたのですが、十分な確信があったので、何の不安も無く登山したといいます。
しかし、驚くべきことに まだ1カ月度度しか経っていないのに、本道からの分岐点には 「ピラミッド登山口」の立て札が建てられていて、その他 要所要所には、道案内やら距離を実測した立て札が幾枚も見受けられたのです。
以前は、全く途がなかったのに 山上までの通路が完成していたのです。
そして そこには茶店まで設けられていた―――と述べています。
この日も200人以上の登山者があったといいうのです。
以下、「太古日本のピラミッド」から引用します。
「山の頂角は幾千年間もの風雨に打たれているので、上が痩せて、下が肥えて、ピラミッドの原則76度50分よりは少し鈍くなっているが、頂上より五六間ばかり下の東側に 数個の石が正しく円形磐境(いはさか)の一部を構成していた。
これより二間ほど上に 真正面に1個の石が露出していた。
これは方形に並べられた磐境(いはさか)の東北角の隅石(すみいし)であることが発見された。
したがって、その中央には太陽石が実在していた。
もし事実でないとすれば、「余は即座に死をもって天下に責めを果たさねばならぬが、胸中には一片の迷いも、不安もない
山上にはすでに陪観者数十名が待ちわびていて、外面を覆う隠蔽物を取り除き始めた。
ピラミッドは神殿である。低級なものを探すために来ているのではない。
ピラミッドであるという大原理が発見されたならば、日本天皇の世界君臨は何人も肯定せねばならぬことになる。
造営当時の原型を探るために、繁茂している一切の樹木をやむを得ずに伐り去らねばならなかったが、深く食い込んだ根のために、原型を毀損したものがあり、風雨のために原型を一部は全く崩壊したところもあり、
完全に原型を露出させることは不可能であったが、ついにピラミッドの大原理は、二万年来閉ざされていた戸張を破って現われ出でた。」
多くの人々が注視する中で、葦嶽山のピラミッドは ついにその全貌を現したのです。 酒井は続けます。
「神体「太陽石」は花崗岩であったために、露出面がはなはだしく風化していて、到底原型を想像することさえ不可能な状態であったが、一個の自然石であることは明らかである。
その周囲に 東西南北に正面する方形磐境(いはさか)が築かれている。
ただし 北部は崩壊して跡かたもない。
この方形磐境(いはさか)を中心にして、十尺ぐらい離れたところに円形磐境(いはさか)が築かれている。
無論これらは神代尺をもって測量するべきであるから、正確な測量は他日に譲ることとする。
ピラミッドの大原理が構成されているので、ピラミッドの原則と言うべきテオクラシイを完全に象徴している。」
すなわち、太陽を象徴する太陽石を中心にして、単様のものは円形磐境(いはさか)または方形をもって囲まれているが、複数のものは 方形および円形の両磐境(いはさか)をもって囲まれています。
容量の関係で さらに「つづき」ます。