< 日本のピラミッド 1 その2>
葦嶽山 その2
酒井はその著書「太古日本のピラミッド」の中で、次のように説いています。
● 本来ピラミッドとは 神を蔡祀する神殿のことである。したがって、ヒトの痕跡のあるところでは、どこでも見られるものである。
故に、エジプトのピラミッドは「霊廟(墓)」ではない。
このように 日本の天皇(すめらみこと)を礼賛しています。さらに―――
● 徳川家は「葵の御紋」であったように、朝廷は「菊の御紋」としているが、これはとんでもなない間違いである。
彼の筆勢はさらに強まって―――
● 中国文化渡来前には 日本文化と称するものはないが如く妄説するばかりか、神代文字(かみよもじ)に対して 不逞言論をしているのに対して、宮内省初め 内務省および文部省に一矢を呈する・・・・とまで述べています。
わが日本に より偉大なるピラミッドが実在する一大発見を中外に大声疾呼しうる自由をあたえられたることを 天地神明に感謝せんかな・・・・。
こうして、わが国最初のピラミッド発見に至る経緯を述べているのです。
ですが、有志の方の援助で旅費の都合がついて、昭和9年に出発することが出来たというのです。
紆余曲折しながらも 案内役の家に辿りつき、葦嶽山(815M)目指したというのです。
葦嶽山を目指したときは すでに夕方6時に近く、雨中を登りはじめたといいます。
葦嶽山(815M)
最初のうちこそ 樵(きこり)が踏み固めた途があったが、いよいよ山中に指しかかると、人跡がまったく絶えてしまったのです。
葦嶽山は急斜面です。 まして雨であれば その斜面は滑って登れそうにないものでありました。 実際に登ってみた経験からいっても、雨天では かなり困難であったと思われます。
この時は、人跡がない状態なので、草木を伝わって登って行ったと思われます。
酒井は 「全身びしょ濡れで、虐待的な強行軍であった・・・・」と語っています。
そして―――疲労困憊の極に達したときに・・・・思い起こすもゾッとす難儀であった。 が、ついに目的の終点に到達した。時はすでに7時であったが、
「第1に目についたのは 3個のドルメンであった。 その1個は脚石だけで台石がなく、他の2個は完全に現存しているが、そのうちの1個はまさに理想的なものである」
このように述べています。
ドルメン
このときの酒井一行が着いたのは、葦嶽山山頂ではなくて、その拝殿である鬼叫山であると 思われます。
註:ドルメンとは「支石墓」といわれるもので、基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとる。巨石墓の一種とされています。
これは フィンランドにあるドルメンです。
そして―――
「ドルメンは多くの学者は 墓標のように言いふらしたが、これは神社における八脚(やつあし)の役割を為すもので、断じて墓標ではない。
後世誤って これを墓標にしたものもあるかもしれないが、山上のドルメンは断じて墓標ではない」
酒井はこのように力説しています。
残念ながら、現在は 葦嶽山の山頂付近は爆破されてしまい、このときのドルメンは、酒井が目撃した当時とは 異なっているようです。 容量の関係で「つづき」ます。