生命体エナジー浄化の会ブログ

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ダ・ヴィンチの絵画 その2

≪ ダ・ヴィンチの絵画 その2 ≫
 
11-10-31
 
ルーブル美術館(パリ)にあるダ・ヴィンチの「岩窟の聖母」は、もうひとつロンドンのナショナル・ギャラリーにも、「岩窟の聖母」があります。
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ロンドンの「岩窟の聖母」
 
この両者の作品を比べると、どこが異なるのかは、ほとんど判りません。
 
貴族や王族の自画像が多数存在しますが、昔は 写真がないので、その代わりとして同じものが、何枚も制作されているのです。
 
工房で 弟子たちが、師の描いたものと同じように制作していた―――と云われています。
 
最後の仕上げに師匠が自ら筆を入れることで、作品を完成していくことは、その当時では当たり前のことであった・・・・ようです。
 
このロンドンに在る「岩窟の聖母」は、サン・フランチェスコ・グランデ聖堂(ミラノ)に飾る絵画として、1483年に発注されたもの―――と、されています。
 
ダ・ヴィンチは、この「岩窟の聖母」を完成させたが、代金の支払いを巡って裁判となり、発注から25年後の1508年に、ようやく決着して、依頼者の手に渡った―――と、言われています。
 
このロンドンの「岩窟の聖母」は、ダ・ヴィンチの工房で製作されたのでしょうが、ダ・ヴィンチの作品とは 「言えない」と 思われます。
 
なぜならば―――
 
波動が高くないのです。
作品の人物の「内面――霊体(エネルギー体)」が描き込まれていないからです。
 
 
ダ・ヴィンチのすべての作品(といっても、主だったものしか知りませんが・・・)には、目に見えない「内面――霊体(エネルギー体)」が描き込まれています。
 
それ故、
ダ・ヴィンチの絵からは、その内臓がどうなっているのか、あるいは骨格や関節はどうなっているのか・・・・あるいは、どのような感情を持っているのかさえ、感応できるのです。
 
ダヴィンチの生きた時代は―――
 
キリスト教の絶対的権威から、人体を解剖して 中を調べることはタブーであり、反教徒とみなされていました。
 
見つかれば、悪魔の所業として 火あぶりの刑にさせられる可能性があったようです。
 
それ故、ダ・ヴィンチは 夜中に地下室で人体解剖をして、内臓などを調べていた―――と、云われています。
 
  
ダ・ヴィンチが生きていた当時、「二人の天才がいた」とされています。
 
その天才は、ダ・ヴィンチよりも25歳も若く、どうちらの才能を高く評価するかで 論争となりました。
 
ヴェッキオ宮殿の向かい合った壁に、両者の作品を描かせて、競わせた・・・・と、言われています(これは、未完に終わっています)。
 
ダ・ヴィンチは、絵画こそが芸術の神髄であると主張するのに対して、もう一人の天才―――ミケランジェロは、
 
彫刻こそが最高の芸術と主張していました。
そして―――
 
ダ・ヴィンチの絵画を、「(あんなもの)私の下男でも描ける」と批判していた・・・とも言い伝えられています。
 
ミケランジェロが最高の芸術という彫刻―――彼の作品である「ダビデ像」は、ルネッサンス期における最高傑作の一つとされています。
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そうでしょうか・・・?
 
私には―――この彫刻から、ダビデの心の内が伝わりません。 
内面は全くの「虚」なのです。
 
一方―――
この画像は、ロダンの「地獄の門」(ダンテの神曲に基づく:19世紀後半)です。
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20世紀初頭に「考える人」として拡大して、各所に設置されています。
上野の国立西洋美術館にも、あります。
 
このロダンの作品からは―――
 
○ 内面の苦悩(メンタルストレス)が 強く前頭葉に現われています。
○ 太陽神経叢へのストレスが、ネガティブ思考を助長して、胃や身体の臓器へのストレスを反射している内面までもが、明確に表現されています。
 
しかも、この彫刻からは
○ 苦悩するあまり、魔界に入り込む寸前の霊気さえ 漂わせています。
 
ミケランジェロの表面的な彫刻に比べて、内面まで深く表現されているオーギュスト・ロダンの作品の凄さを、どうみても高く評価せざるを得ないのです。
 
 
さて―――
ミケランジェロは、システィーナ礼拝堂の天井画「最後の審判」を描いています。
 
この「最後の審判」は、ミケランジェロの最高傑作と されています。
 
実は、このローマに在るカトリック教会の バチカン宮殿の天井画は、 ダ・ヴィンチが引き受けるはずでした・・・・。
 
メディチ家から話を受けて、その晩年をローマで過ごしていたダ・ヴィンチ
秘かに構想を練っていた・・・・と、伝えられています。
 
が、メディチ家当主が亡くなり、ミケランジェロが描くことになったのです。
 
そして―――
ダ・ヴィンチは・・・・失意のまま ローマを去ることになったのです。
 
つづく