生命体エナジー浄化の会ブログ

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エヴェレストと 果てしない挑戦 その1

≪ エヴェレストと 果てしない挑戦 その1 ≫
 
2012-4-21
 
エヴェレスト―――
 
世界最高峰の頂きを・・・・一度は この目で観てみたい・・・。
単純にそう思っていました。
 
昔は そんな山が存在することすら 人類には知られておりませんでした。
とてつもなく高い山が存在する―――ということが分ってきたのは、20世紀にはいってからです。
 
日本の最高峰は、言うまでもなく富士山です。
標高3776Mは、一度は登っておくべき「霊山」です。
 
スキーを日本に伝えたレルヒ少佐は、カンダハーの古いスキーで、この富士山に挑んでいます。
 
諸説あるようですが、8合目までは行っていたようで、そこから滑っています。
 
それなら・・・・自分でも、簡単に富士山で滑れるのではないか―――
若い自分は、単純にそう思っていました・・・・。
 
 
私がまだ、中学生か高校生ぐらいの頃に、富士山を直下降した男がいる・・・そんな噂が耳に入りました。
背中にパラシュートを背負って、チョッカるのですから、究極のスキーです。
 
その後、その男は エヴェレストにも挑戦して、8000Mのサウスコルからチョッカったのです。
 
その男、三浦雄一郎氏は 70歳を迎えて エヴェレストに登頂し、75歳になって 再びエヴェレストの山頂に立っています。
 
そして今―――
 
80歳にして 再びエヴェレストの山頂を目指そうとしています・・・・。
 
三浦雄一郎氏と わが身を比較すると・・・・情けなくなります。
エヴェレストを「観てみたい」というのと、「登頂したい」という思いの、天地の隔たりを感じます。
 
 
私も、究極のスキーは―――「直下降」にあると、体感していました。
 
毎年のように行っていた蔵王では、最終日のスキー講習を終えると、ザンゲ坂から温泉街まで、ノンストップで ほとんどをチョッカっていました。
 
この快感は、様々なスキーコースで展開し、いつしか「山岳スキー」への情熱へと向かっていきました。
 
私は かって―――
 
「日本100名山」の完全登頂を、「いずれ成し遂げる・・・」と 粋がっていた時代がありました。
 
利尻島利尻富士は、港町から登るので、そのままの標高差があり、通常は一日行程ですが、明け方に登り始めて、昼前には港町で食事をしているほど、脚力には自信がありました。
 
その後、スキーを始めると「登山」は捨てて、スキーに のめり込ん行きました。
 
日本スキー教師協会に所属して、プロスキーヤーのはしくれでもありました。
苗場で 石原新太郎都知事に、スキーを指導したこともあります。
 
まだ「フリースタイルスキー」という言葉がなく、「ホットドッグ」と言っている時代に、2本のスキーを担いでスキー場に向かい、メチョクチャに滑りまくっていました。若かったのです。
 
常に、スキーコースから外れて 山林の中や 人跡未踏のような崖を滑る快感に浸りきっており、何度もパトロールから警告を受けていました。
 
実際、小さな雪崩なら 4,5回巻き込まれましたので、雪中に埋まって呼吸のできない恐怖感は、今でも はっきりと蘇ってきます。
 
八方尾根の横に在る 立ち入り禁止の斜面が滑りたくて、滑りたくて、たまりませんでした。
 
ただ、谷底まで滑り終えた後の帰路を考えると、決行に踏み切れず 断腸の思いであきらめていました。
 
「いずれ、富士山頂から滑る!」と、仲間たちに宣言していましたし、谷川岳の山頂からも滑り下りて、富士山に向けて 着々と準備をしていましたが、
 
調べてみると、富士山では 単独での滑走のリスクが高く、チームを組む必要がありました。
残念ながら、周囲には 同行するモノ好きはおりませんでした。
 
月日は流れ・・・今では、あれほどの情熱を持っていたスキーは、きれいさっぱりと おさらばしました。
 
人跡未踏の山岳を 「滑り降りてやる!」という情熱は、単なる「ホラ話」になってしまいました。
 
8本あったスキー板は全て処分し、12本のストックも、フリースタイル用の特大ストック以外は、すべて処分しました。
 
何の未練もありません。
もはや、スキー場に行って滑る「気力」が喪失しているのです。
 
これが「老化現象の 最たるもの」かも・・・・しれません。
 
 
このような自分を自省すると、80歳にして「エヴェレスト登頂を目指す」という男の存在を、遠くから眺めているだけでは「ダメだ!」と、つくづく思うのです。
 
三浦雄一郎氏には、偉大な父親がおりました。
父・三浦敬三氏は、わが国スキー界の草分け的な存在でした。
 
高齢になってきたので、一人暮らしの父親(敬三氏)を 雄一郎氏は自宅に呼び寄せて、一緒に住むことにしました。
 
が、ある時 「東京に帰る!」といって、再び一人暮らしを始めたと云います。
その理由は―――
 
布団の上げ下ろしから食事まで、すべて面倒をみてくれるので、
「楽過ぎて・・・このままでは、身体がダメになる・・・」というのです。
 
そして、100歳を祝う会で 三浦敬三氏は
「私のスキーは まだまだ 未熟です。もっと上を目指して精進します」
と、語ったそうです。
 
多くの方は、「もう・・・歳だから・・・」という言葉を連発して、どんどん やる気が失せていきます。だから・・・ますます 年寄り臭くなっていきます。
 
「ここが悪い」「あそこが悪い」と 病気自慢をするような方々と接していると、そのエナジーに汚染されて、実際に老けていきますし、病気になっていくと思われます。
 
100歳にして 「もっと、上を目指す!」という気力を持てることこそ、私たちがお手本にするべき最たるもの―――と、思われます。
 
 
70歳にしてヒマラヤを滑り、77歳のときにキリマンジャロ、米寿の88歳のときにアルプス・オートルートを完全縦走して、99歳でモンブランの氷河で滑っています。
 
そして―――
 
100歳のときに、スノーバード(米)で 息子の雄一郎氏、孫、ひ孫の4世代で滑降しています。
 
スキー界に貢献したことにより 内閣総理大臣賞を受けていますが、常に身体を鍛え続けて 「もっと、上を目指しながら」 101歳で他界されました。
 
夢も情熱も消えうせてきた自分を、「エヴェレスト」をこの目で見ることで、少しは「過ぎ去った昔」を 思い出させてくれるかもしれない・・・・
 
こんな思いがよぎっていました。
 
つづく